「ナナメの夕暮れ」感想。共感と寂しさと希望が湧く、そこにいる「私」への本

ナナメの夕暮れ書影

お笑いコンビオードリーの若林さんが雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載していたエッセイをまとめたこの本。


先に述べておくと、私はオードリーが大好きでして。

「好きなお笑い芸人は?」と聞かれたら一番に挙げますし、学生の時から今までオールナイトニッポンを聴き続けているリトルトゥースでもあります。

 

この本。2018年8月30日に発売されて、8月31日には読み終わってたんですが、

読んだ後、というかもう読みながら顔ぐっちゃぐちゃにゆがめて泣いてしまい、読後あまりにもぼーっとしすぎてしまいました。

 

感想書くために少し時間を置いて二回目読もう、と思ったものの、再度読むまでえらい時間がかかりました。

しかもそんなにまで泣いた理由が、自分でもはっきり言葉にして表せないのもまた困りもので。

 

初回ほどではないけど、二回目読んでもやっぱりぐぐぐと泣いてしまい、ここはもう感想考えすぎるより自分の好きな部分引用してく方法しかないかなと思い至ったのでそうします。ちなみにめちゃくちゃ長いです(4000字超え)

(ちなみに普段から「若林」「春日」と呼んでるファンなので敬称略になってますが愛は深く持ってます。念のため)

付箋を貼りたい言葉で溢れている

ブログタイトルにもしてしまった通り、私も物事をナナメから見がちで、ひねくれ倒して、こねくり回して考える癖がある人間です。

 

オードリー、もとい若林が好きになったのも、お笑いの人なのになんか冷めてる、冷たい、ひねてる、なんだこの人、といった印象だったと思います。

テレビもバラエティも昔から大好きでしたが、了見が狭かったためお笑いとは元気で明るくてニコニコしてる人がやるものだと思ってました。

 

そこで登場してきた若林の「人見知り」「気にしすぎ」「飲み会が嫌い」といった考えの部分に、それはそれは共感しすぎてしまい。

それまで明るい性格が偉い・人付き合い上手い人が好かれるといった一定の考えしか持っていなかった自分にとって、「こういう人がいるんだ、こういう人もいるんだ」と可視化させてくれた、というのがよりファンになる要因だったと思います。

 

そういう人間からしてみると、この本で書かれていることはあまりにも自分でした。自分すぎて希望でもあるし、自己投影しすぎて泣きまくってしまったのかなと思います。

ここからは一部を引用しつつ、読者でありいちファンの勝手な共感を書いていきます。

読みながら書いていたので、ここから口調が急に小論文チックになってます。一回ですますに直したんですがいまいち感情が伝わらなかったのでそのままにしました

 

内より外に楽しみを見つける

楽屋では一言も話さず、コンパにも行かず、バイト仲間とのバーベキューにも行かず、相方とのネタ作り以外は散歩をしているか家で本を読んでいた。

その行動パターンを繰り返すことは、プライドが高く、その割に打たれ弱い、だが影響されやすい、そんな自分の防衛策だったのだろう。

内ではなく外に大事なものを作った方が人生はイージーだということだ。

〜略〜

内(自意識)を守るために、誰かが楽しんでいる姿や挑戦している姿を冷笑していたらあっという間に時間は過ぎる。

上は本序盤の内容、下は後半。

この一冊の中で、若林自身の考え方が変わっていくのがすごくよく分かる作りになっています。

 

私は新しく何かに誘われた時、「自分らしくないしな」の考えで断ることが多々あった。

本当に気が乗らないなら正しいけど、全てが全てそうじゃなかっただろうとも思う。

きっと私は自らの”かもしれない”を自分から断ってきたのかもしれない。なぜなら行動することが怖かったから。

 

他人の正解に合わせすぎると自分のジャッジができなくなる、

こっちは気にしすぎなくなる薬がもしあるなら、常用したいぐらいにはもう生まれた時から気にしすぎてしまうのだ。

心療内科を訪れた時の先生とのやり取りがとてもよかった。

外のジャッジを気にするから・受け入れられたいから緊張するという若林に、「外のジャッジが間違ってるとしても?」と答える先生。

 

そうか、そうかと本の中の若林と同時にこっちが気づかされた。

いつの間にか「社会」「世の中」が全て正しいと思っていて、そこに沿えない自分がいけないのだと思い込んでいた。そんなことはないのか、なくていいのか。

 

書かれる姿をイメージすると凪や柳のようなゆる~っとして掴めない先生で、断定しない委ねる姿勢に、もし自分が目の前にしたら困ってしまいそうな人だなと思ったけど、そんな人もいるんだと、気づきを得られたのは嬉しい。

 

「今日の自分は本当の自分じゃない。自分というものはもっと高尚な人間なんだ」と言い訳逃避して今日の自分をないがしろにしてきたんだ。

「自分の求める理想の自分の姿」というのが多分誰にでもあって、そこにはいつまでたってもなれないし、ならない。

ただ自分の場合はそれに近づく努力も怠ってるから若林と比べてはいけないのだけど、なあなあで生きている身にとにかく刺さった。

 

物事に熱くなっている人を笑うのは

熱さは冷笑主義者の標的になりやすい。そして、自分だってそういった側面を持っている。冷笑主義者が、なぜ冷笑し続けるかというと自分が冷笑されることに怯えているからだ。

昔から言っているのだが、他人の目を気にする人は、おとなしくて奥手な人などでは絶対にない。心の中で他人をバカにしまくっている、正真正銘のクソ野郎なのである。

熱くなること、熱くなっている人を感動や羨望の気持ちで見つめ始めたのはほんとにここ一・二年ほどで、今までの自分は圧倒的に冷笑主義者だった。そうしていれば自分は笑われずに済むから。とにかくとにかく、怯えていたんだと思う。

 

でもそうして自分があざけって上から見ているつもりになっていたその時間で、努力する人たちは自分の向上のために生きているから、それはそれは素晴らしい結果を出す。結果が出なくてもやってきたという自信がつく。

そしてそれを見た自分はまた勝手に嫉妬する。

 

この悪循環、悔しさとか嫉妬とか持つのはいいことだと思ってるけど、度が過ぎると全く何にも生み出さないと思った。

自分が単に歳重ねたせいなのか、その中で色んな人に会ったり物事知ったりする中で剥がれていったのかは分からないけど、本を読んでその感じは「ある」変化なんだと知られたのが嬉しい。

 

他人への否定的な目線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う。

 

涙は喜びと寂しさが混ざったものかもしれない

初めて読んでわんわん泣いた自分のあの感情はなんだったろうと、色々考えた。

 

生きづらい人の、自分のような人の代弁者だと思っていた相手の変化が羨ましいのか、妬ましいのか、寂しさなのか悲しみなのか。

もしかしたら変化した若林を今度は冷笑したいのか、そういう気持ちが自分にあるのか?などうんうん唸って考えたけど、ぴったりハマる言葉はやっぱり出てこない。

 

でも人は環境や関わる人、体験、見るもので変わるというのが私自身も成長して分かって来たし、一生人を笑って蔑んで見るままの性格ではないよな、自分も。

 

変わったからって、全てを許容したわけでない。相変わらず疑問は持つし、なんだそれ!と思うこともある。

 

ちなみに発売後のラジオで、

「これ(本)を読んで『若林くん、これこういう時はこう考えるといいんだよ』とアドバイスしてくる人がいるんだけど、そうじゃない」

と言ってたのでとても良かった。

めちゃくちゃにわかる。そうじゃない。それを求めてこれを書いたんじゃないだろうしそういう人は読まなくていいんじゃないですかね。

 

今まで持っていた物事への意識を、批判や非難、蔑みの笑いにしなくなったということ。

肯定と許容の面積が増えたのであり、根本のものの見方は変わってないんだろうというのが分かるので、やっぱり好きだなあと今も思うままです。

 

というか、根っこももともとひねくれてナナメなんでなく、生きてきた中でこうなっただけなのではと思うんだけどな。

 

先に挙げた「他人のジャッジ」に通ずる部分だけど、

「自分の気持ちよりも親が喜ぶから、監督(少年野球の)が笑うから○○を優先してきた」という部分があり。

それはつまり周りの人を楽しませ喜ばせたいという気持ちがあるからで、それは若林の優しさだし気の良さだと思う。本心を言わないのは、周りの誰かの喜びを優先してきたからだ。身に覚えがありすぎて共感しかない。

 

合う人に会う、ように私も生きたい

終盤、「合う人に会う」という言葉が出てくる。

誰とでも合う自分じゃないからこそ、本当に心の底から合う人に会えることの喜びと奇跡を深く感じられた。

私も数年前からやっているんですが、もう会いたい人と合いたい人と過ごせるようにしたらいいかなと思い始め、乗り気でない集まりや友人関係には繰り出さないことにした。

年上の友人に言ったら「それやるの早すぎる」と笑われたけど…

 

最近大切にするようになってきたのが「時間」で、これほど貴重なものはないよなと感じている。だからこそ会いたい人に会いに行きたいし、合いたい人に出会いたい。

周りを伺いすぎてきた人間だから、そろそろそういう風に選んでもいいでしょう!と、背中を押され並走してくれてる気持ちになった。

 

自意識過剰な人間は、歳を重ねると楽になって若返る。

という言葉は、これからの自分を楽しみに思ってていいのかな?という希望をくれる。

変化してもやっぱりこういった気持ちを与えてくれるの、嬉しくて仕方ないですね。

 

ただラジオでは相変わらずなので(最近涙もろくなってるけど)これからもひとつよしなに二人で漫才やってほしいと思ってます。

若林三部作としてこっちも読み直そうかなと思います。